不思議でならない

いつもどうでも良いことばかり書いていますが,営業用の良いことばかり書くよりもましだと思っています。

 

①法律的に無理な事件,②法律的な部分はなんとかなりそうでも証拠がなくて勝てそうにない事件,③たとえ勝っても相手からお金が貰えそうもない事件,そして④何とか勝ってお金も貰えそうでも,そのための弁護士費用が掛かり過ぎる事件。

 

これらの事件は,お客さんからすれば弁護士に依頼してまでやる利益のある事件ではありません。とてもお勧めできません。

 

というか私はお断りしています。もっとも訴えられてしまった場合だけは別ですが。

 

ですが営業用に良いことばかり書いているのでは,このように利益がありませんよということは書けないでしょう。営業用というのは,どんどんいらっしゃいということであり,来てもしょうがないですよとは言えないからです。。

 

他の仕事はある程度しかたないでしょう。ですが紛争を解決するのが仕事の弁護士がそういうことをすると紛争は増えます。それも無駄な紛争が。

 

もっとも④のタイプの事件は弁護士費用の問題ですから,これを安くすれば何とかなるという人もいるでしょう。驚くべきことにそのようなことを言う弁護士もいるのです。

 

でもそれは出鱈目ですし,そのようなことを言う弁護士が本当にそれをやっていることはないでしょう。

 

そんなことをやって弁護士業が成り立たつ訳がないからです。我々も色々な支払があるのですから。無理なものは誰がやっても無理なのです。

 

ところが最近は①~④のタイプの事件が裁判になったりするのを目にするようになりました。もっとも勝てそうかどうかは見方にもよる面がありますから私が正しいと言い切るつもりはありません。

 

ですが③のタイプはどうでしょう。相手にお金がなければ貰えないのは誰から見ても分かることです。ところがそういう事件も目にするのです。

 

私たちの世界は良くも悪くも必ず結果が出ます。負ければそれまでですが勝った時の方が問題です。

 

勝ったけれども貰えない,それがお客さんに分かったときその弁護士は一体どうするのだろうと不思議でなりません。

記憶はいい加減

今回は痛感しました。人の記憶はいい加減だということを。いわきのコース,これはアップダウンのことですが,実際と記憶では大分違っていました。

 

一概に記憶と言っても①認識する②記録する③保存するという3つの過程があります。このどこかで間違いがあると正しい事実を記憶しておくことができません。

 

当たり前ですが,まず事実を正しく認識しないと正しい記憶にはなりません。これも結構難しいところがあります。見間違いというものがありますし,道路のアップダウンで言えば「感じ方」というものもあります。

 

アップダウンは調子が良いとあまり感じないのですが,調子が悪いと結構感じます。車に乗っていると分かりにくいですが,歩いてみると「あれ,ここってこんなに傾斜があったっけ」と思うことがあると思います。

 

見ているのは全く同じ道路ですから,車に乗っているときは正しく認識ができていないということですね。今回のいわきは,この認識の部分が一番の原因でしょう。

 

次に,事実を正しく認識できても,その認識をそのまま記録できなけば正しい記憶にはなりません。これも結構あるかと思いますが,理屈はともかくとして実感することはあまりないかもしれません。

 

最後ですが記録までは正しくできても,その記録をそのままで保存しておけなければ正しい記憶にはなりません。時間の経過とともに記憶が曖昧になってくるというのは体験することですので,これは良く分かると思います。いわきは,これもあったかもしれません。

 

正しい事実を記憶するというは意外と難しいものです。

 

さらに,これに人に伝えるということが加わるともっと大変です。保存した記録を正しく表現しないと正しい事実は相手に伝わらないからです。

 

記憶に基づいて事実を話すというのは思ったよりも大変なことで,私も仕事では良く聞かないといけないと思っています。お客さんから,一度聞いただけでは危なくて仕方ありません。

 

嘘を言っているという訳ではなく正確性に欠けるのは良くあること。ですから二度三度と聞くのですが,それでも微妙に変わることはあります。これは仕方ありません。

 

もっとも私の仕事では,ただの記憶の問題として片付けられることは全くと言ってよい程ありません。私のお客さんと相手の言っていることがまるっきり違うからです。

 

本当に話が違うのですから嘘としか考えようがありません。そういうのがほとんど。というか,それが普通。

 

仕事の全てがそういう訳ではありませんが,敢えて分かり易く言えば「嘘との戦い」が私の仕事。つくづくこの仕事は良い仕事ではないと思います。

表現の自由と言っても

今は「イスラム国」の日本人人質事件の方に話題が行っていますが,その前はフランスのシャルリー・エブド襲撃事件が問題にになっていました。

 

いくら気に入らないからといって暴力に訴える,まして相手を殺すなんてことは絶対に許されることではありません。

 

これはイスラム教から見ても同じです。イスラム教の指導者たちも襲撃犯を非難しています。

 

ただそれはそれとして,シャルリーのやり方が良いのかというは別です。表現の自由だ,風刺だといっても,イスラム教徒が大切にしているものを踏みにじるのは間違っています。

 

そりゃ表現の自由は大切ですよ。ただそれは,「言論の自由」として,民主主義の前提となるというのが大きな理由です。

 

民主主義というと「多数決」というのが頭に浮かびますが,民主主義=多数決ではありません。それでは,「数が多ければ良い」,「多数派が少数派を踏みにじることができる」ということになってしまいます。

 

最後は多数決になるとしても,何らかの決定をするには議論を尽くして全員一致を目指す,そこまでは行かなくても,議論の結果として少数派も多数派になる可能性がある,だから最悪の場合,多数決も許されるのです。

 

まず議論が大前提。だから言論の自由の保障。そしてそれがあらゆる表現ということになり,表現の自由の保障となるのです。こういう経緯の自由ですから,たくさんの種類がある「自由」の中でも特に重要だと考えられています。

 

ですが,それは何を言っても良いということではありません。「自由」といっても,他人の「自由」を踏みにじって良いというものではありません。そういう「自由」はないのです。他人が大切にしているものを貶していいのが「表現の自由」ではないのです。

 

イスラム教徒が嫌だというのなら,それは尊重しなくてはなりません。国家権力を批判するということには遠慮があってはいけません。権力者の暴走を止める必要あるからです。

 

ですが宗教はそれと同じではありません。もしイスラム教が「気に入らなければ人を殺しても良い」としているなら遠慮なく批判しても良いですが,そうではないのですから,どうしても嫌だというものを何が何でも批判するというのは違うでしょう。

 

もっと穏当にやれば良いのに。襲撃は絶対にダメですが,イスラム教徒の怒りは良く分かります。

理解したら終わりです

昨日は,どうして良いか分からないのが見え見えで,やることもやっていないのに「「こちらの判断です」なんて,何を考えてるの!と言いました。本当に,どうして素直にできないのでしょう。不思議です。

 

これと同じようなことがありました。ある裁判で,その後の進め方について私と裁判官で話をしていて,相手方に話を振ったら「検討します」だって。検討するような内容じゃないんです。当然の手順で,誰がやってもそうなる内容なんです。「検討します」じゃなくて,「その方向で準備します」というのが「常識」なのです。

 

ただ「まあしょうがないか」と思い,また少し私と裁判官で話をした後に,相手方に話を振ったら,また「検討します」だって。これにはさすがに呆れましたよ。元々やることが当たり前の内容ですし,私と裁判官の話を聞いていれば,素直に「それでやります」としか返答のしようがないんです。

 

もちろん何でも「はい」という訳には行きません。ですが判断が難しい内容なら,そんな風に聞きませんよ。第一,難しければ難しいほど,十分検討した上で裁判に臨むものです。その場で「検討」なんて連発する訳がありません。

 

もちろん私だって駆け出しのころはありました。今みたいに仕事はできません。逆に,最初からできたら,それこそ怪物です。でもそんな人,どこにもいませんよ。色々やっているうちに身に付くのです。でも,それだって素直にできなくちゃあ,身に付きません。素直に「そうですね」と言えない人で優秀な人,伸びる人なんて見たことありません。

 

そういう人は,自分が「できない」というのを認めたくないのでしょう。そりゃあ自分が「できない」のを認めるのは誰だって嫌ですよ。プライドがありますし。

 

でも「今」「できない」のだからしょうがないでしょう。大切なのは経験を積んで技術を向上させてより良い仕事をすること,お客さんに利益をもたらすことでしょう。そのためのプライド。素直に「やります」と言えないのはプライドではありません。

 

私には理解できません。というか理解したら終わりですね。

反省というものがない

先日は「裁判員裁判の量刑がおかしい」,「もう止めた方が良い」,「ただ裁判官だけの裁判が良いかというとそうでもない」ということを書きましたが,その一例を。

 

8月1日付け朝日新聞の「オピニオン」欄に取り調べの録画についての周防正行氏へのインタビュー記事が掲載されていました。周防氏は,痴漢冤罪事件を描いた「それでもボクはやってない」を作った映画監督です。この記事によると周防氏は法制審議会の刑事司法制度の部会に委員として参加してたとのことです。

 

周防氏が言うには,その中で「特に裁判官の抵抗がすごかったですね。否認を貫いたため5カ月以上も勾留された村木厚子さんのケースについても,ある裁判官は 会議後,僕に『その時点では適切な判断だったと思います』と言いました。これには参りましたね。裁判官は何も反省していないということが,一番ショックでした」ということでした。。

 

そりゃあそうでしょうね。結果的にでも間違っていたにもかからず,人を5か月も身柄を拘束しておいて「適切だった」というのはどうかしていますものね。まるで他人事,真剣味というのもがまるで感じられません。責任感のかけらもありませんね。でもこれが多くの裁判官の感覚でしょう。だから冤罪や民事裁判でも誤った裁判が起こるのです。

 

ですが,どうしてこんなことが起こるのでしょう。真剣味があるかどうか,人一人の人生を真面目に考えられるかどうかですから,これは能力の問題ではありません。人格的な問題です。

 

私が思うところでは「特権意識」でしょう。エリート意識と言った方分かりやすいでしょう。間違ったト意識,感覚なのですが。こういう感覚は「勉強ができる」というところから,「自分は特別だ」という意識を持つことが原因であるように思います。

 

ですが「勉強ができる」などということは,所詮は,テストで点が取れだけのこと。足が速いとか,力が強いとか,そうしたものと本質的に変わりはありません。本当に日本で数人とかせいぜい10数人のトップレベルなら特別の価値はありますが,何百人何千人ということになるとそう大したことではないのです。

 

全く価値が無いと言っているのではありません。エリート意識を持つのは間違っているということを言っているだけです。もっと言えば,エリート意識を持っても良いのですが,それなら仕事を人よりもずっと真面目にやらないと。

 

でも不思議なことにエリート意識が強い人ほど仕事をしないようように思います。それを赤裸々に描いたのが池井戸潤氏の「半沢直樹」シリーズですね。それが事実だから共感を呼んで人気があるのでしょう。

 

悲しいですが,それが現実です。どうかしている裁判官に判定してもらうのが「裁判」です。ですから私も極力裁判を勧めません。それ以外にないからやるだけです。

 

それだけに「もっと何とかしなと」という気持ちはあります。これは人格の問題ですから,人格形成期になんとかしないと。そうなると,もう幼児教育しかありません。当たり前みたいですが「人のことを考えましょう」と。こういう職業だからかえって良く分かります。世の中シンプルなものです。

 

とにかく反省というものがない人は例外なくだめです。それは間違いありません。

ものには限度というものがある

1週間程になる前でしょうか,最高裁判所が検察官の求刑の1.5倍の懲役刑を言い渡した1審,これを支持した2審の判決を破棄して,自ら量刑をした裁判がありました。

 

この事件は,大阪市内の自宅で1歳8か月の娘の頭を殴ったり,床に打ち付けたりするなどの暴行を加えて死なせたものです。父親と母親が傷害致死罪で起訴されました。

 

1審の大阪地方裁判所での裁判員裁判では,このような重大な児童虐待には今まで以上に厳しい罰を科すことが会情勢に適合する,法定刑の上限に近い量刑が相当だなどとして,検察官の懲役10年の求刑に対して、2人の被告に懲役15年を言い渡しました。また2審の大阪高等裁判所もこれを支持しました。

 

これに対して最高裁判所は,裁判員裁判で市民感覚を反映させるにしても、他の裁判との公平性を著しく欠いたものは許されないとして,判決を破棄して,父親懲役10年,母親懲役8年とする判決を言い渡しました。

 

当然のことでしょう。1,2審の判決はやり過ぎなのです。ものには限度というものがあるのです。

 

確かに1歳8か月の幼児の頭を殴ったり,床に打ち付けたりすれば死んでもおかしくありません。「普通に考えればそれくらい分かっていたはず。」,そう考えれば「未必の故意」があるとして殺人罪で起訴されてもおかくはないでしょう。

 

そう考えると懲役15年が不当だとは言い切れません。

 

ですが起訴されたのはあくまで傷害致死罪。死ぬという結果まで分かっていなかったというもの。死のという結果を分かってはいないかった傷害致死罪と,分かっていてやったという殺人罪とは決定的に違うのです。絶対に超えてはいけない一線というものがあります。

 

もしどうしても傷害致死罪がおかしいとうのなら,専門的な議論はおきますが,起訴内容を殺人罪に切り換えろという命令もあり得ます。ですが分かっていたかどうかは,その人個人の問題。普通の人なら分かっても,その人個人が分かっていなければ殺人罪には問えません。しかも前にも書いたように,未必の故意なんていうのは下手をすると表現の違いの範囲とも言えるレベル。

 

詳しいことはわかりませんが,警察,検察だって「死ぬのは分かっていたんじゃないか」と相当追及はしたのだと思います。それでも「そこまでは分かっていなかった」ということだったのでしょう。だから検察官は傷害致死で起訴したのだと思います。ですから傷害致死罪での起訴で,しかし情状は悪いといして求刑も懲役10年なのです。決して軽い求刑ではありません。

 

なの懲役15年。これは無茶です。ろくに考えずに単なる感情で量刑したとしか思えません。話にもならないしょう。

 

人を裁くというか,紛争を解決するというのは,悩んで悩んで,考えて,その結果「これしかないだろうう」という結論に達してやるものです。感情論など論外。もちろん私だって感情を否定しません。私自身,感情はかなり激しいです。それだけに感情の暴走は抑えなくてはならないことは身に染みています。

 

ですから今回の最高裁判所の判決はまともでしょう。懲役15年が,父親懲役10年,母親懲役8年とされたのですから,その差は歴然。母親などほぼ半減です。やり過ぎなのですよ。

 

この判決に対しては,市民感覚の反映,裁判員裁判の意義を否定するものだとかいう批判もありますが,見当違いもはなはだしいものです。このような批判自体,感情論です。きちんと判決を理解しているのか。

 

この判決は,きちんとした議論がされて理由づけもしっかりしていれば,量刑の差があり得るともしているのです。単なる感情論はダメと言っているだけなのです。

 

もっとも,きちんとした議論をして理由づけもしっかりしようとすれば,求刑10年の1.5倍という無茶な量刑はできないでしょう。ものには限度というものがあるのです。

 

「それじゃあ裁判員制度は何なんなのだ」,「やる意味があるのか」という意見もあるでしょう。そういう意見に対してははっきり言います。裁判員裁判など止めたらいいのです。

 

私だってプロの裁判官が良いとは思っていません。むしろプロと言えないのではないか,とすら思っています。ですが,裁判官が良くないのなら,それを何とかすべきで,そこに素人を入れて何とかしようという発想が間違っているのです。

さあ大変

昨日の続きです。川口の方ですが,あれはすごく大変なんです。被害者を車体に巻き込んで1.3㎞も引きずっているので,ことによると殺人罪が適用されるかも知れないのです。

 

その前提としては,客観的に引きずったことによって被害者が亡くなったということでなければなりませんが。要は直接の死因ですね。これも簡単な問題ではないでしょうが,医学的に証明されるべきところです。

 

引きずったことによって亡くなったとなれば,次は,加害者の主観=認識です。被害者を引きずっていることに気が付いていたかどうかが問題となります。大ざっぱにまとめれば,気が付いていなければ単なるひき逃げ。殺人罪までは行きません。もちろん情状はものすごく悪いですが。

 

気が付いていたらさあ大変。殺人罪の適用となるのではないでしょうか。被害者を引きずっているのに気が付いていれば,普通は「このまま自動車を走らせたら被害者が死んでしまう」と考えるでしょう。

 

そうなると積極的に「殺す」ということではなくとも,人が死ぬと分かって自動車を走らせたということで「殺人」となります。殺人罪などの「故意」は,それをやったら人が死ぬという単純な「認識」で良く,「殺そう」という「意欲」とか「目的」までは必要ないのです。

 

もっとも被害者を引きずっているのに気が付いても,①「このまま自動車を走らせたら被害者が死んでしまう」と考えずに②「確実ではないけどこれは死ぬかも」とか③「大怪我はしても死なないだろう」とか別の考えを持つかもしれません。

 

①の場合は「確定的故意」,②の場合は「未必の故意」となり,この2つは「故意」ですから殺人罪となります。ですが③の場合は「認識ある過失」,つまりあくまで判断ミスですから殺人罪にはなりません。

 

ただこの「未必の故意」と「認識ある過失」の差は微妙で,10年以上前にある裁判官と話していたら,その裁判官曰く「学説ではそう言われていますが,実際にはそのような微妙な判定はできないでしょう」ということでした。

 

あくまで例ではありますが,学説と言う机上の世界ではく,現実の世界では「確実ではないけどこれは死ぬかも」と「大怪我はしても死なないだろう」なんていうのは僅かな差です。ちょっとした気の持ちよう,もっと言えば表現の差でしかないと言えるでしょう。

 

そんな微妙なもので殺人罪が成立するかどうかなんてことを区別できるかというと,確かにそれは無理でしょう。おっしゃるとおいだと思います。

 

ただ本当に怖いのは,ここの部分なんです。僅かな差,微妙なところだから軽い方の認識ある過失でやってくれるかというと,おそらく裁判官は殺人罪が適用される「未必の故意」の判定をするでしょう。

 

「疑わしきは被告人の利益に」というのが刑事裁判の大原則。10人の犯罪者を逃しても1人の無辜も処罰しないというのが決まりではあります。

 

ですが実際の裁判は違います。1人や2人を犠牲にしてでも犯罪者を逃さないというのが裁判官の心理です。「疑わしきは被告人の利益に」「無罪推定の原則」なんてものは完全に無視されています。むしろ「疑わしきは被告人の不利益に」「有罪確定鉄則」と言っても言い過ぎとは思いません。だから袴田事件とか滅茶苦茶な冤罪事件が起きるのです。

 

飲酒運転なんていうのは論外として,万が一事故を起こしたらその場から逃げようなんて絶対に考えてはいけないのです。下手をしたら殺人罪ですから。死亡事故だって大変ですが,殺人罪はもっと大変です。素直に現場にいた方が良いのです。

どうしてやるの

この週末に2件の死亡事故があったとの報道がされています。

 

1件は小樽市内で女性4人が死傷,内3人が死亡という大変悲惨な事故です。もう1件は埼玉県川口市内で死亡は女性1名ですが,被害者を車体の下に巻き込んで1.3㎞も引きずったというものです。どちらも飲酒をした上での運転だと思われるとのこと。

 

こういう報道を見ると,いつも「どうしてやるの」と思います。「危ないから酒を飲んだら乗るな」というただそれだけのことがどうしてできないのか。しかも川口の方は公務員だと言うではないですか。公務員だと死亡事故ではなくとも,飲酒運転で人身事故を起こせば懲戒免職は避けられないでしょう。

 

飲酒運転での悲惨な事故は絶えないですから自業自得であり当然のことでもありますが,失うものが余りにも大きい。ただ運転しなければ良いだけなのですから,こういうことをやる人間の気が知れません。

 

もしかしたら以前にも書いたかもしれませんが,ある酒気帯び運転の裁判で,被告人(刑事事件は「被告」,民事事件は「被告」と呼ばれます)がもう飲酒しませんと言っていたら,簡単にできるように聞こえたのでしょうか,裁判官が怒ってしまいました。

 

その裁判官曰く「止める止めると言うけれど本当に止められるんですか!私だって止められないのに。良いんです飲んだって,運転しなければ。良いんです運転したって,飲まなければ。その両方を一緒にしないでくれと,ただそれだけのことをお願いしているだけなんです。何でできないんですか!」。

 

う~ん全くそのとおりです。反論の余地もありません。それに綺麗ごとを言っているのではないのが良い。自分の体験に基づいているから説得力が違います。

 

飲酒運転での事故が報道されるたびに,この裁判官の言葉を思い出してしまいます。本当に「何でできないんですか!」と言いたくなりますね。

楽しい話を

私のブログの記事はどうでも良い話がほとんどですが,逆に,仲間の弁護士のブログは仕事絡みの話がほとんどです。本当に真面目だと思いますが,私にはできません。

 

仕事絡みの話は仕事だけで十分です。仕事を離れてまで書いていたのではとても持ちません。裁判官がまともなら良いのですが,「絶望の裁判所」でも書いたとおりの体たらくですから。

 

昨日は,東京「高等」裁判所に行きましたが,私の出した書類を全然読んでいませんでした。はっきり言いますが,「真面目に読んでいるの?」という裁判官は珍しくありませんが,「全然読んでいないだろー。この野郎ー」とまで思ったのは初めてです。酷過ぎます。

 

この酷い裁判官は,相手方弁護士の書類も読んでいません。弁護士同士は議論がかみ合ってているのに裁判官の質問だけがずれているのですから。これではいくら何でもふざけ過ぎています。

 

もう名指しで言って徹底的に叩いても良いと思うくらい酷かった。これじゃあどうしようもありません。書類を作れというのではありません。ただ人が作った書類を読むだけなのに,それもしないとは。

 

こういうとんでもなく酷い裁判官を相手にしていると,ものすごく疲れます。きつ過ぎます。ですがきつい時ほど,楽しいことを考えなくては。そうでなければとても持ちません。私は仕事絡みの話はそう書けません。精神的にもちません。

 

仕事絡みの話を良く書いている仲間の弁護士の仕事がきつくないとは言いません。考え方の差でしょうか。私にはなかなかできないことです。

残業代0円って

最近になってまた経済界から残業代を0円にしろという話が出ています。私はこういう話を平気でするという精神が理解できません。人を使ってお金を払わないというのですから呆れ果てます。

 

こういう話を平気でする輩は,好きな時間に働けるとか,生産性の向上とか,成果に対して報酬を払うとかもっともらしいこと理由を言い募ります。

 

そんなことを言うのだったら今の制度の中でやれば良いでしょう。誰も禁じてはいません。

 

好きな時間に働くといっても,賃金が割増しになる夜中にだけ働きたいという人はほとんどいません。24時間営業店にはいるのでしょうが,労働者全体で見れば100人に1人もいないでしょう。それだって自ら望んで働いているとはとても思えません。そういう1%にも満たない人を考えて議論をするなんてナンセンスです。

 

また生産性が向上って,残業代が0円になるとどうして生産性が向上するのでしょうか?今,生産性が向上しないというのは,経営者が無駄な仕事をさせているからではないですか?残業代と関係なく生産性を向上させるのが経営者の務め。役割を果たせないなら経営者を辞めれば良いのです。

 

成果に対して賃金,報酬を払うというのなら今だってできます。たくさんの成果を出している人にはたくさん払えば良いじゃないですか。そんなことは誰も禁じていません。たくさん払ってもらえれば,成果を出そうと働く人もいるのではないですか。どんどん賃金,報酬を払いなさい。

 

結局,残業代0円っていうのは,ただただ賃金を払いたくないだけです。いろいろ理由を言ったって,そんなのは全部嘘ですよ。今だって過労死とかブラック企業とか言っているのです。残業代0円なんてことになったら,もっと酷いことになります。そんなことには絶対反対です。

 

因みに私は,残業代を払う方で,払われる方ではありません。仕事上でも,労働者,経営者どちらからの相談,依頼があります。働いてもらったら賃金を払うのは当たり前。払いたくないなら無駄な労働をさせない。だから働かせ方を工夫をするのです。工夫をしない人間が平気で発言するのは嫌いです。