日曜論壇/うまい話はまず疑って

これは当時,栃木県弁護士会の副会長という職務にあったために執筆・掲載されたものであり,私個人に執筆依頼がきた訳ではありません。またこのような執筆を依頼されたり,新聞に掲載されたということをアピールしたりするために掲載するものでもありません。あくまで私が,どういう価値観を持ち,どのような姿勢で弁護士業務に取り組んでいるかについて,ご理解をいただくために掲載するものです。
(掲載当時のままで、加筆・訂正はしておりません。)

 

2011年02月06日(日) 朝刊 総合1版004頁 全域
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日曜論壇/富岡規雄(とみおかのりお)/うまい話はまず疑って

昨今、無料、0円などという宣伝広告が目につくようになった。テレビ広告でも無料を前面に出したゲームの宣伝広告がなされている。しかしちょっと待ってほしい。遊びや趣味の世界ならともかく、事業ともなれば本当に無料というものは存在し得ない。

 

無料だというのなら、その事業はいったい何で成り立っているのだろう。今放送されている、その宣伝広告費はどうやって捻出しているのか。働いている人の給料はどうするのか。とても無料などでできる訳がない。件(くだん)のゲームも入り口部分は無料でも、快適に遊ぶためには課金が必要になってくるそうだ。かえって割高な程で後から高額の請求が来たという問題も出ている。

 

テレビの一般の民放は無料であり、これは確かにいくら見ても課金はされない。しかし、放送局を成り立たせている宣伝広告費は、消費者が買う商品の代金から出されている。やはりどこかでお金を払っているのだ。無料というのは見かけの上だけで、本当の意味では無料ではないのである

 

こういうことは、考えれば誰でも分かることで、決して難しいことではない。どうやって成り立つのかなどと疑問を持つだけでよいのだ。こういったことをしないとだまされて大変な目に遭ってしまう。

 

先日も、ある住宅建築会社が破産をしたが、その直前に多くの施主から、かなりの額の前払い金をだまし取ったとして捜査がされている。前払いしてもらえれば、代金を割り引くと言って前払い金を払わせたというのである。

 

しかし、代金を割り引くというのは、その会社にとって不利なことである。不利なことをしてまで、なぜお金を集めなければならないのかと考えれば、その会社は経済的に行き詰まっているのではないかと気付くはずである。これに気付けば、前払いどころか、契約を止めようとするはずである。被害は最小限に抑えられたであろう。

 

こうしたことは、消費に限定されない。法人税減税の件などそのよい例だろう。国際競争力を上げるためなどとして法人税を下げよというのだが、いったいどういう仕組みでそうなるのか。利益が出ているから法人税を払うので、利益が出ていない会社には関係がない。あるいは減税分を研究開発費に回すというのかもしれないが、会社が必ずそうするという保証はない。

 

研究開発費をかけさせたいというなら、端的に、その点を優遇してやればよい。何も法人税を下げる必要などない。結局、会社が税金を少しでも減らしたいから、風が吹けばおけ屋がもうかる的な理由を付けているだけではないか。そして、そのツケは国民に回される。

 

また消費税増税も議論されており、それは社会保障の充実のためなどという。しかし、最初の消費税導入のときにも、社会保障の充実が言われていたのをご存じだろうか。何を今更であろう。あまり疑い深いというのも問題ではあるが、疑問を持たないとだまされてしまう。ちょっとでも疑問を持つよう心がけたいものである。
(県弁護士会副会長)

日曜論壇/「既得権」は不当なのか

これは当時,栃木県弁護士会の副会長という職務にあったために執筆・掲載されたものであり,私個人に執筆依頼がきた訳ではありません。またこのような執筆を依頼されたり,新聞に掲載されたということをアピールしたりするために掲載するものでもありません。あくまで私が,どういう価値観を持ち,どのような姿勢で弁護士業務に取り組んでいるかについて,ご理解をいただくために掲載するものです。
(掲載当時のままで、加筆・訂正はしておりません。)

 

2010年12月26日(日) 朝刊 総合1版004頁 全域
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日曜論壇/富岡規雄(とみおかのりお)/「既得権」は不当なのか

「既得権」という言葉が使われている。その使われ方をみると、不当に利益を得ているという非難が込められているように思う。そういうものが世の中に存在することは否定できないが、最近はみだりに使われていないだろうか。

 

例えば、正社員の給料や雇用が守られていることについて、既得権だとする論者がいる。そういう論者は、正社員の地位そのものが不当だとでも言いたいのだろうか。正規に雇ってもらい、きちんと仕事をし、給料をもらう。会社の一方的な都合では解雇されない。これのどこが不当だというのか。

 

確かに、パートや派遣といった非正規雇用と比べれば、正社員は「守られている」とは言える。しかし、それは非正規雇用の待遇や生活が苦しいほど低いことが問題なのであって、正社員が不当に優遇されているというわけでは決してない。正社員について既得権というのは、不当に低いものと比較して、普通のものをおとしめるというやり方である。はっきり言うが、それは卑劣なやり方である。

 

既得権という言葉は、最初から相手を悪だと決め付け、非難するものとして使われている。それが悪かどうかの判断は、根拠を示し、きちんと議論をして行うべきであり、既得権などという言葉によって決め付けるべきではない。

 

既得権という言葉は、本当は根拠がない、きちんとした議論ができない場合に、それをごまかす手段として、使われているのではないか。

 

これと似たような使われ方をしているのが、「国民」や「国民の理解」という言葉ではないだろうか。例えば、小沢氏の政治資金について、同氏が説明をしないのは、「国民の理解」を得られないなどの言い方がされている。しかし、いったい、いつ、誰が国民の意見を聞いたというのか。そもそもそこで言われる「国民」とは誰か。

 

私も間違いなく「国民」の一人であるが、意見を聞かれたことはないし、もし聞かれれば、「そんなことよりも、もっと重要な問題に取り組んでほしい」と答えるであろう。わが国に限らず、経済は危機的状況にあり、政治には緊急に取り組むべき課題がある。それだけでなく雇用、少子高齢化や年金の問題など問題は山積みである。政治資金などの過去の話よりも、それらの将来の話にこそ取り組んでもらいたい。こう思う人は私だけではないだろう。

 

結局、「国民」とか「国民の理解」という言葉も、結論ありきであり、それを使う人間が都合よく使っているにすぎないのだ。本来は、根拠を示してきちんと議論をして行うべきものを、「国民の理解を得られない」の一言で済ませてしまう。それは「既得権」の使い方と同様に、根拠がない、きちんとした議論ができないということをごまかそうというのであろう。

 

最近、こういう言葉の使われ方が多くなってきたように思う。そういうものを目にしたら、そこにうさんくささを感じ取った方がよいと思う。そうでないとだまされてしまう。また逆に、そういう言葉の使い方や論の進め方をしないよう気をつけたいものである。
(県弁護士会副会長)

日曜論壇/負担過酷すぎる死刑判断

これは当時,栃木県弁護士会の副会長という職務にあったために執筆・掲載されたものであり,私個人に執筆依頼がきた訳ではありません。またこのような執筆を依頼されたり,新聞に掲載されたということをアピールしたりするために掲載するものでもありません。あくまで私が,どういう価値観を持ち,どのような姿勢で弁護士業務に取り組んでいるかについて,ご理解をいただくために掲載するものです。
(掲載当時のままで、加筆・訂正はしておりません。)

 

2010年11月21日(日) 朝刊 総合1版004頁 全域
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日曜論壇/富岡規雄(とみおかのりお)/負担過酷すぎる死刑判断

16日、裁判員裁判では初めて死刑判決が下された。
裁判員裁判については、いろいろな問題が指摘されているが、その中の一つに、裁判員に死刑の判断を下させてよいかという議論もあった。それがついになされた。報道にはいろいろな論調があるが、裁判員の負担の重さは共通して語られている。

 

実際、死刑という結論に行き着くまでは相当大変だったはずである。プロの裁判官でさえ、死刑という結論を回避できないか悩み抜くと言われている。何日間も悩み、夜も眠れないほどだという。

 

もともと裁判官、検察官、弁護士というプロの法律家は、そういう重大な事態に直面することも覚悟してその職に就いた人間である。しかも普段からいろいろな事件に接しており、ある程度の慣れもある。それでも、死刑判決ともなれば悩むに悩む。人の命を奪うという判断をするのだから、当然のことであろう。

 

それを、無作為に抽出された、普通に暮らしている人たちにやらせるというのだから、本当にむごい話である。一生忘れられないであろうし、いつ死刑が執行されるのかと四六時中考えてしまうかもしれない。そして実際に死刑が執行されたことを知れば、ショックを受けるに違いない。

 

これだけ重大なことを、なぜ市民にやらせる必要があるのか。理解に苦しむ。「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」の第1条には、その趣旨として、「この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官とともに刑事司法手続きに関与することが司法に対する国民の理解の増進と信頼の向上に資することにかんがみ」とある。要は、勉強のためということであろう。しかし勉強のために人の命を奪うという判断をさせようというのだから、もうめちゃくちゃとしか言いようがない。

 

今回は事実に争いがなく、被告人が重大な罪を犯したことが前提だったから何とかできたのだろうが、事実に争いがある事件はどうなるのか。無実を訴える人間に対して裁判員が死刑判決を下せるのであろうか。それが後に誤りであることが判明したらどうするのか。考えるだけでも恐ろしいことである。

 

先の裁判では裁判長が被告人に控訴を勧めた。到底考えられないほど異例のことであるが、裁判員の心理的負担を減らそうとしたというのならよく分かる。高等裁判所も死刑判決を支持したとなれば「あなたたちの判断は間違っていなかったのですよ」と言えるからである。しかし、そこまでやらなければならないというなら、最初からやらなければよいのである。

 

「裁判に市民感覚を」という声も聞くが、それは司法に携わる法律家の感覚が市民の感覚からずれていると言いたいのであろう。しかし、もしそういう面があるのなら、法律家の感覚を何とかすべきである。市民を巻き込んで何とかしようというのは、あまりに乱暴であろう。冤罪(えんざい)という「致命傷」を負っていない今のうちに裁判員裁判を廃止すべきである。
(県弁護士会副会長)

日曜論壇/競争だけでうまくいくか

これは当時,栃木県弁護士会の副会長という職務にあったために執筆・掲載されたものであり,私個人に執筆依頼がきた訳ではありません。またこのような執筆を依頼されたり,新聞に掲載されたということをアピールしたりするために掲載するものでもありません。あくまで私が,どういう価値観を持ち,どのような姿勢で弁護士業務に取り組んでいるかについて,ご理解をいただくために掲載するものです。
(掲載当時のままで、加筆・訂正はしておりません。)

 

2010年10月17日(日) 朝刊 総合1版004頁 全域
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日曜論壇/富岡規雄(とみおかのりお)/競争だけでうまくいくか

今、社会のかなりの部分に競争主義が広がっているように見える。「競争のないところに発展、あるいは質の向上はない」という考え方からすれば、それはよいことなのであろう。実際、大きな歴史の流れの中では、競争によって発展が促されたという側面があることも否定はできない。

 

現代においても、身近なところでは、家電などの工業製品は年々改良されており、その善しあしはあるにしても、競争による質の向上というものはありそうである。しかしよく考えてほしい。このような分かりやすい例は実は少ないのではないか。

 

例えば、医療について考えてみよう。競争によって医療の質が向上するのであろうか。逆に言えば、競争がなければ、質の向上がないのであろうか。答えは否であろう。医療の質の向上は、競争といういわば「外圧」ではなく、患者を救いたいという医療関係者の志によるものであると思う。外圧がなければ質が向上しないというのはあまりにも失礼ではあるまいか。

 

また教育についてみると、競争を持ち込むと子どもがよりよく育つのであろうか。競争となると、子どもの出来不出来を比較して区別するということになる。しかし、そもそも、そのようなことが可能なのか。テストの出来不出来というのもあるにはあるが、それはその子のその時のある一面だけにすぎない。それをあたかも、その子の持つ価値であるかのように扱って区別することは誤りであろう。

 

教育とは、自発的に学べる人間を育てることであると思うが、それは競争という外圧でできることではないであろう。それだけではない。競争とは、勝者と敗者を生む。敗れた者は切り捨てられることになるが、敗れた子はどうするのか。教育において、そのような乱暴なことをしてよいのか。

 

先ほど例に挙げた工業製品とて、競争によって必ずしもよくなるとは限らない。工業製品とは少し違うが、競争によって質が向上するというのなら、なぜ欠陥住宅はいつまでもなくならないのか。

 

誤解しないでほしいが、私は何も競争を否定したい訳でも、悪だと決めつけたい訳ではない。ただ競争が善であり、競争をさせればすべてうまくいくかのようかのような考え方は間違っていると言いたいのである。

 

社会において競争が発生するのは避けられないことであり、現実に競争がなくなるという事態は考えられない。しかし、いわゆる新自由主義の下、競争をさせればすべてうまくいくかのように競争主義や成果主義が広がり過ぎたように思う。それだけでなく、競争を阻害するものは悪であるかのような決め付けがなされているようにも思われる。

 

しかし、そのような、競争がなければ人は怠けると言わんばかりの考え方は誤りであると思う。人を信用しないのにも程がある。社会の発展や質の向上は、「もっとよくしたい、なりたい」という、その人の志によるところが大きく、それは競争とは関係がないのではないか。もっと人を信用しよう。今、それだけは指摘しておきたい。
(県弁護士会副会長)

日曜論壇/貸与制移行を中止すべし

これは当時,栃木県弁護士会の副会長という職務にあったために執筆・掲載されたものであり,私個人に執筆依頼がきた訳ではありません。またこのような執筆を依頼されたり,新聞に掲載されたということをアピールしたりするために掲載するものでもありません。あくまで私が,どういう価値観を持ち,どのような姿勢で弁護士業務に取り組んでいるかについて,ご理解をいただくために掲載するものです。
(掲載当時のままで、加筆・訂正はしておりません。)

 

2010年09月12日(日) 朝刊 総合1版004頁 全域
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日曜論壇/富岡規雄(とみおかのりお)/貸与制移行を中止すべし

今、法曹養成制度が危機にひんしている。

 

法曹(裁判官、検察官、弁護士)として働くためには、司法試験に合格するだけでなく、合格後に司法研修所で司法修習生として1年間の修習(研修)を受ける必要がある。この修習期間中は、修習に専念する義務が課されアルバイト等が禁止されている。当然、生活費をどうするかが問題となるが、これまでは給費制、つまり給料が出ていた。これで生活の心配をすることなく修習に専念できた。しかし本年11月からこれが貸与制、つまり国が金を貸し付ける制度に移行することになっている。

 

貸してくれるならよいではないかという考え方もあろうが、そうも言っていられない危機的状況にある。法曹養成制度の変更は、給費制から貸与制というだけでなく、多岐にわたるものであるが、その一つに法科大学院制度がある。2年から3年の間、法科大学院で学ばないと司法試験の受験資格がないということになったのだ。

 

学ぶとなると当然学費がかかる。日弁連の調査では、今の司法修習生には、奨学金などで平均320万円、最高で1200万円の借金があった。このような状態で貸与制ともなれば、さらに300万円以上の借金が加算される。法曹になった段階で既に「多重債務者」となっている。笑えない話である。

 

任官当初の給料があまり高くない裁判官、検察官はもちろんのこと、弁護士になった人間も借金の返済に頭を悩ませることになる。詳しくは述べないが、やみくもに合格者数を増やした結果、弁護士の数が膨れあがって、就職もままならず、ろくに収入のない弁護士も出てきているのだ。

 

このような状況では法曹を目指そうなどというのは、とてつもないリスクを抱え込むことになる。まともに考えれば法曹になろうなどと夢にも思わないであろう。現に法科大学院の志望者は激減している。制度変更の目標の一つであった多様な人材の登用など吹き飛んでいる。

 

これを国民の側から見れば、借金の返済に追われている裁判官や検察官に裁判をしてもらうということになるが、それがよいのかどうか。また、借金の返済のために金もうけに走らざるを得ない弁護士が出ないとも限らない。金の心配ばかりをしていて、よい仕事はできない。最終的に困るのは、国民ではないか。

 

私も脱サラで弁護士になったが、当時法科大学院制度や貸与制だったら、今でも会社勤めをしているのは間違いない。司法修習生時代は給料ももらったが、弁護士になってから採算の取れない仕事もだいぶやった。弁護士の仕事とはそういうものだという思いもあるが、なりたてのころは国民から給料をもらったからという意識もあった。現に司法研修所でそういう教育もされた。

 

一連の制度変更は、誰もが不幸になるようなものであり、根本から見直す必要があると思うが、緊急の課題は目前の貸与制への移行を中止することである。この件については本紙の読者にもぜひご理解をいただきたいと思う。
(県弁護士会副会長)

日曜論壇/要求過剰の社会憂える

これは当時,栃木県弁護士会の副会長という職務にあったために執筆・掲載されたものであり,私個人に執筆依頼がきた訳ではありません。またこのような執筆を依頼されたり,新聞に掲載されたということをアピールしたりするために掲載するものでもありません。あくまで私が,どういう価値観を持ち,どのような姿勢で弁護士業務に取り組んでいるかについて,ご理解をいただくために掲載するものです。
(掲載当時のままで、加筆・訂正はしておりません。)

 

2010年08月08日(日)  朝刊 総合1版004頁 全域
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日曜論壇/富岡規雄(とみおかのりお)/要求過剰の社会憂える

 

弁護士の中心的な仕事は訴訟である。訴訟というのは、例えば、相手方に対して金銭の支払いを請求するというものである。職業上、何をどこまで要求できるのかを常に考えているわけである。そのせいか仕事上だけでなく、日常生活でも「要求」というものについて常に考えるようになった。その対象は多岐にわたるが、最近気になっていることがある。それは、近年、要求が過剰になっているのではないかということである。

 

最近も参院議員選挙があったが、そこでは民主党に対する失望感がずいぶん語られていた。しかし、よく考えてみてほしい。リーマンショック以降の困難な時期に政権を担い、問題も山積みという状況では、民主党に限らず、どの政党でも、すぐに成果など出せる訳がない。危機的状況の中、悠長なことを言っていられないというのも理解できるが、あまりにも成果を求め過ぎているのではないか。

 

また医療崩壊などという話も耳にする。その原因も、いろいろ取りざたされているが、患者側の要求が厳し過ぎるという指摘もあったかと思う。これは弁護士として医療過誤と言われる分野で職業的にもかかわるところでもある。実際に相談を受けてみると、医療過誤と疑われるものも少なくはないが、必ずしもそうとは言えないものもある。

 

この点は、微妙なものがあるが、はっきりしているのは、医療に対する要求水準が高ければ高いほど、医療過誤と言えるケースは多くなるということである。しかしこれは、医師の側からすれば、たまったものではないということになるであろう。訴訟リスクの高い医科にはなり手が少なくなっているというのもうなずける。

 

私は何も民主党を擁護したい訳でも、患者が間違っていると言いたい訳でもない。私自身、専門家であるが、専門家に要求される水準が低くてよいとは思わない。ただ、やみくもに要求すればよいわけではない、という当たり前のことを言いたいだけである。

 

過剰な要求は、社会一般にまで及んでいる。最近では、年末年始でも店が開いているのが当たり前のようになった。確かに利用する側からすれば、便利ではある。しかしそこで働く人たちは休めない。商品を生産、納入する仕事に携わる人たちも休めない。皆疲れているように思う。果たしてそれでよいのだろうか。
昔は、できないことの方が多く、不便なところもあったが、そういうものだと思って皆我慢していたし、何とかやっていた。それがいろいろなことができるようになってきて、「もっともっと」と要求するようになったように思う。

 

「できること」に満足するのではなく、「できないこと」により多くの不満を持つようになってしまったのではないか。いつも不機嫌で、疲れ切っている。そのような社会は、どこか殺伐としており、生きにくいように思われてならない。もう少し要求水準を下げてもよいのではないだろうか。「できること」にもっと感謝してもよいのでないか。考え直す時期に来ているように思われてならない。
(県弁護士会副会長)