日曜論壇/負担過酷すぎる死刑判断

これは当時,栃木県弁護士会の副会長という職務にあったために執筆・掲載されたものであり,私個人に執筆依頼がきた訳ではありません。またこのような執筆を依頼されたり,新聞に掲載されたということをアピールしたりするために掲載するものでもありません。あくまで私が,どういう価値観を持ち,どのような姿勢で弁護士業務に取り組んでいるかについて,ご理解をいただくために掲載するものです。
(掲載当時のままで、加筆・訂正はしておりません。)

 

2010年11月21日(日) 朝刊 総合1版004頁 全域
切抜紙面JPEG・PDFなし
日曜論壇/富岡規雄(とみおかのりお)/負担過酷すぎる死刑判断

16日、裁判員裁判では初めて死刑判決が下された。
裁判員裁判については、いろいろな問題が指摘されているが、その中の一つに、裁判員に死刑の判断を下させてよいかという議論もあった。それがついになされた。報道にはいろいろな論調があるが、裁判員の負担の重さは共通して語られている。

 

実際、死刑という結論に行き着くまでは相当大変だったはずである。プロの裁判官でさえ、死刑という結論を回避できないか悩み抜くと言われている。何日間も悩み、夜も眠れないほどだという。

 

もともと裁判官、検察官、弁護士というプロの法律家は、そういう重大な事態に直面することも覚悟してその職に就いた人間である。しかも普段からいろいろな事件に接しており、ある程度の慣れもある。それでも、死刑判決ともなれば悩むに悩む。人の命を奪うという判断をするのだから、当然のことであろう。

 

それを、無作為に抽出された、普通に暮らしている人たちにやらせるというのだから、本当にむごい話である。一生忘れられないであろうし、いつ死刑が執行されるのかと四六時中考えてしまうかもしれない。そして実際に死刑が執行されたことを知れば、ショックを受けるに違いない。

 

これだけ重大なことを、なぜ市民にやらせる必要があるのか。理解に苦しむ。「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」の第1条には、その趣旨として、「この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官とともに刑事司法手続きに関与することが司法に対する国民の理解の増進と信頼の向上に資することにかんがみ」とある。要は、勉強のためということであろう。しかし勉強のために人の命を奪うという判断をさせようというのだから、もうめちゃくちゃとしか言いようがない。

 

今回は事実に争いがなく、被告人が重大な罪を犯したことが前提だったから何とかできたのだろうが、事実に争いがある事件はどうなるのか。無実を訴える人間に対して裁判員が死刑判決を下せるのであろうか。それが後に誤りであることが判明したらどうするのか。考えるだけでも恐ろしいことである。

 

先の裁判では裁判長が被告人に控訴を勧めた。到底考えられないほど異例のことであるが、裁判員の心理的負担を減らそうとしたというのならよく分かる。高等裁判所も死刑判決を支持したとなれば「あなたたちの判断は間違っていなかったのですよ」と言えるからである。しかし、そこまでやらなければならないというなら、最初からやらなければよいのである。

 

「裁判に市民感覚を」という声も聞くが、それは司法に携わる法律家の感覚が市民の感覚からずれていると言いたいのであろう。しかし、もしそういう面があるのなら、法律家の感覚を何とかすべきである。市民を巻き込んで何とかしようというのは、あまりに乱暴であろう。冤罪(えんざい)という「致命傷」を負っていない今のうちに裁判員裁判を廃止すべきである。
(県弁護士会副会長)